06 January 2009

出雲おおやしろ



 参道を歩きながら望む三方の山々。そこに掛かる朝もやで眩しい朝日から目隠ししている。敷石の踏みしめられる音はまだ眠そう。境内の前に出来た列に加わる。
 出雲大社を夏に訪れたのは、60年に一度の大遷宮が始まり、普段叶わない本殿への特別拝観が出来るからだ。整理券を受け取る。午後一時の回。早朝にはもっと人が並んでいたということか。

 既に参拝者で賑やかな境内。出雲国では八百万の神が集まる十月を「神有月」と言うが、神々が集まり始めた朝はこんな喧騒かと思い馳せる。境内を囲う木々は緑深く、異界を感じさせる。出雲大社の御祭神は大国主大神で、各地から寄贈された「だいこくさま」が彰古館に収められていた。
 おみくじを引くと吉凶占いが見当たらない。聞くと出雲大社のおみくじでは明記していないとのこと。だが通し番号「第一番」のおみくじはあっさり良いことしか書いてないので、一番良いものを引いたのだと一人勝手に喜んだ。
 境内から小道を挟んで立つ神楽殿には重さ5t、長さ13.5mの巨大なしめ縄が掛かっている。頭上の藁の隙間に硬貨が挟まるとご利益があるようで、老若男女懸命に挑戦している姿が面白い。

 本殿参拝までは未だ時間があり、近くの古代出雲歴史博物館へ。開館して一年半、現代的な外見とは対照的に、古事記や日本書紀の舞台である出雲地方や神々、風土記の時代の暮らしや出土品など古代の魅力が詰まっている。一番の興奮はかつての出雲大社本殿の模型だ。九本の三本束ね柱に支えられた神殿は高さ16丈(48m)に達し、そこから斜めにすらりと階段が伸びていたらしい。「雲にわけ入る千木」とその偉容を人々が感嘆したと平安時代の書物「口遊」は伝える。

 気が付くと本殿参拝の時間。現在の本殿は1744年に造営されたもので高さ24m。「大社造」と呼ばれる構造で、神社建築最古の様式を残している。列に付いて、恐る恐る本殿へ足を踏み入れる。大社独特の二礼四拍一礼。蔀(しとみ)という窓から覗く天井の「八雲図」は264年前に描かれたとは思えない艶やかさで、その謎めいた形容と構図は当時の世界観や宇宙観を描いているようにも思えた。

 3段割子の出雲そばを空腹に流し込み、バスで日御碕に着く頃には日がすっかり傾いていた。知らずに見上げた東洋一と呼ばれる高さ43mの灯台は105年前から日本海を見守る現役だ。18時半過ぎに出てしまう最終バスまで、気の向くままに切ったシャッターの音が静まり返った岬では妙に響いていた。

05 January 2009

広島にヒロシマ

  

 季節は正反対だが、あの朝もこの日のような青空が広がっていたらしい。1945年8日6日、午前8時15分。
 63年後の師走のある日の原爆ドームは思っていたより小さく、朝早いこの日は人かげがまばらだった。この世界遺産は、何も知らなければ近代建築の遺構かもしれない。よく見ると補修の跡が見て取れる。建物の崩れ方から爆心を推測してみたりもした。一瞬で鉄筋と煉瓦の建造物を大破する力は想像を超えている。

 平和記念公園を歩く。原爆の日の式典の中継で見るあの場所。 「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」 家族連れや外国人訪問者が慰霊碑の前で記念写真を収める。少しあった雲が晴れてきた。空の青と石床の照り返す白が、記念公園を更に人工的な場所に見せた。

 隣の平和記念資料館が語る。なぜ広島だったのか。何が起きたのか。何を残したのか。何をしなければならないのか。時系列で進める学校の歴史の授業では近代史に踏み込まない。小学生の時に図書館で読んだ「はだしのゲン」がヒロシマについての一番の教
科書だった。 ここを訪れ、歴史の「知識」だったヒロシマは「事実」へと変わった。戦争反対、そして平和は万人の理想だ。それでも起きる戦争もある。今も殺し合いは世界の各地で無くならない。だが核兵器は別だ。恐ろしい規模の無差別殺傷にとどまらず、放射能が長期間人体を冒し続ける。 平和は幾多の争いと犠牲から学んだ創造物だ。それを忘れれば、簡単に壊れてしまう。広島は(そして長崎も)知っている。声が枯れても訴え続ける平和と核廃絶の真意がわかった気がした。

 戦国時代末期に毛利輝元が開いた太田川のデルタ・廣島は、江戸時代を通し山陽道の要所として発展を続ける。廃藩置県後、旧陸軍の施設などが段階的に設けられ、日清戦争を迎える頃には広島は旧日本軍の軍都となっていた。
 被爆後70年は花も咲かないとも言われた広島の街の師走は、忘年会に向う背広姿や若者が夜を闊歩して、そんな歴史を忘れさせるくらいに賑やかだった。お好み焼、つけ麺、そして瀬戸内の牡蠣は広島だからこその美味さ。新球場でカープが優勝争いでも演じてくれれば応援しに行ける。赤ヘルと市民の団結と熱狂は縦縞の虎にも負けないらしいのだ。